日本の高校生、東丈は超能力に目覚め、宇宙を無に帰せんとする幻魔と闘わねばならなくなり、それに対抗しようと、超能力者を結集する。この4年前に「サイボーグ009」が生まれ、日本人の青年が主人公で、世界各地にいるサイボーグ戦士が終結するスタイルに、この「幻魔大戦」は近いシチュエーション。石森の得意とする切り口に平井和正先生のアイデアと融合させる事は容易かったに違いありません。
編集の方がこの企画に白羽の矢を当てたのは自然の流れだったと思います。現に、フライト中の飛行機内から物語が始まり、謎の攻撃を受けるエピローグから、日本とアメリカに掛けて展開するワールドワイドな世界観、サイボーグ戦士が武器と肉弾戦で闘う戦闘シーンならば、「幻魔大戦」は超能力戦という、それまでほぼ誰も描いたことのない世界を見事に表現出来たのは、萬画家石森のイマジネーションと創造力、それを表現する画力があったからに違いありません。
回を追うごとに、スケールが大きくなっていき、正に、幻魔対人類の決戦に相応しい展開になった頃に、悲劇を暗示させて連載が突然終わってしまったのは残念でなりません。その後も続くのであるならば、第一部完結には相応しいラストシーンですが、物語全てを完結させるには、余りにも読者に対して、投げっぱなしで終わらせてしまいました。
単なる興味で言えば、生前に、事の真意を聞いておけば良かったのですが、今となっては、自分の憶測でしか語れません。自分は芝居という分野で、作品を創っておりますが、経験上、一つ思い当たることは、劇団という体制では、
座長が二人存在する集団は先ず決裂し、解散することが日常茶飯事です。役割分担をはっきりさせ、相手を尊重しない限り、旨くはいきません。やりたい事、描きたい事を、互いが譲らなくなると、間違いなく破たんが待ち受けているでしょう。
当時、石森はまだ若く、イケイケだったでしょう。平井先生もしかり。格もほぼ同格で、どちらかが大先輩でもなく、同等に渡るしかなかったはずです。この危うさの中、譲るところは譲り、押し出すところは押し出す、そんなさじ加減が出来れば、最後まで完結出来、「あしたのジョー」のような、大傑作が誕生したかもしれません。なぜなら、中座するまでの二巻分の物語は、二人の才能がぶつかり合い、眩しいほど輝ける作品だったのですから。