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「佐武と市捕り物控・隅田川物語 前編」

小学館の石森担当だった小西湧之助さんという編集の方がいらっしゃいます。
毎年正月には必ず家に訪れ、石森とは何時間も深くお酒を交わし合う仲です。
最後の入院の時、お見舞いに訪れて下さいまして、管に巻かれた石森の寝顔に向かって、「いろいろ、あったね」と一言、言葉を置いていかれました。
その愛の詰まった優しい言葉を聞いた瞬間、僕は涙腺が決壊したように、涙が溢れ出て止まらなくなり、
そして、その一つの言葉に、二人の関係が全て凝縮されているようで、その深さに感動をしたのです。
きっと二人は、戦友のような間柄だったのだと思います。
その時の思いが片時も離れず、自分が結婚する時の仲人は、小西様しか考えられなかったくらいです。
そんなご縁で、夫婦でよく小西さんのお宅にお邪魔させて頂いては、石森の話を聞かせて頂きました。
少々強面の小西さんですが、いつもその時ばかりは満面の笑みで話されます。
その中で最も印象に残ったエピソードがございます。
マンガの創成期、読者のほとんどは幼い少年で、ヒット作と言えば、赤塚不二夫先生の「おそ松くん」や
藤子不二雄先生の「オバケのQ太郎」と、子供に支持される作品ばかり。

ゴッホの描いた「ひまわり」という絵があります。それを観て、活力を感じる方もいれば、項垂れたひまわりに寂しさを感じる人もいる。花瓶に詰め込まれたひまわりに、カオスを感じてしまう人もいるでしょう。
それに、良いとか悪いとか、曲線が甘いとか、絵の具の質が悪いとか、具体的な評価なんてどうでもいいような気がしてしまうんです。

 

編集の方や業界の大人たちは石森章太郎というマンガ家の才能を誰もが認めておりましたし、その結果、原稿の依頼も途切れることなく次々と舞い込んできます。
熱狂的に支持をする読者も数多くいたのですが、描く作品、描く作品、低年齢層の読者に受け容れられることはなく、ヒット作と呼べるような作品はありません。
後に、マンガを読んでいた少年少女が青年期になり、「009」がヒット。
テレビの媒体に乗り大ヒットした「仮面ライダー」などもありますが、当時は、とてもマニアックな作家だったようです。
それだけ、子供が読むには、作品がどうしても大人っぽかったと、小西さんは語っています。
ある時、真剣な眼差しを僕に向け、こう言いました。
「章太郎を何とかしたかった。あいつの作品が万人の読者に正当に評価される雑誌を創らなきゃいけないと思ったんだ。それで、俺は創刊させた」
目から鱗とは、こういう事だと思いました。それだけ、この話は衝撃だったのです。
小西さんは、石森章太郎のために、マンガ史上初の、大人向けの青年誌を創刊させました。その雑誌こそ、【ビックコミック】だったのです。

「いよいよお前の時代が来たぞ」小西さんは、そう言って石森の肩を叩いたそうです。
少年誌では、余りにも大人っぽくて受け入れがたかった作風が、大人向けの青年誌であるならば、自由に羽ばたくことが出来る。
お互いに信頼し合い、そして、本気で石森の才能に惚れ込み、この男を何とかしたいという強い思いがなければ動かなかった事です。
当時、マンガは子供の読むものだと言われていた時代に、大人が読むマンガ誌を出版する、一人のマンガ家への思いが、漫画界に革命を起こしたのです。
手塚治虫先生と石森章太郎の二枚看板を、まず考えたと言います。
「あいつ、最初、俺に100ページくれって言ったんだよ」
石森は生意気だと、愛情溢れる笑顔で、そう言いました。
一度、少年誌で描いた、石森にとって初めての時代ものの作品に、編集長の小西さんは目をつけていました。
この作品ならいけると確信があったのでしょう。それが、『佐武と市捕物控』。
この作品の感想エッセーを書くはずが、タイトルを口にするまでに、一回分のほとんどを費やしてしまいました(笑)。
だけど、今までお話ししたことは、『佐武と市捕物控』を語るうえで、どうしても最初にお伝えしたかった事だったのです。
そのマンガ史上初めての大人向けの雑誌、ビッグコミックに初めて書き下ろしたのが、『隅田川物語』という作品。
今、読んでみても、その時の気合いが、ビシビシと伝わってくる画作です。
“100ページくれ”と啖呵を切ったのも、恐らく石森のなかで、相当な自信があったからに違いありません。
さすがに、100ページは割けずとも、60ページを創刊号で、一人のマンガ家に渡すのも異例だった事でしょう。
その快作、「隅田川物語」、次回はようやく、僕が感じた感想をお話しさせて下さい。

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